【星屑の囁きみたいに些細な出来事】 作:雲黒斎草菜(利用規約


この物語はフィクションです。実在のよく似たタイトルの作品・土地・人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。

『星屑の囁きみたいに些細な出来事』 作:雲黒斎草菜
2017年 4月16日(日)

次元と次元の狭間で


「俺が――っ!?」
「ほんまや! なんで裕輔が時空修正なんかできまんねん。おまはんが何か手伝ったんやろ?」
 優衣は黒髪を空しく振る。
「ワタシはなにもしていません。そうなると残る当事者はユウスケさんだけになります」
「そんなアホな。裕輔、そうなんか? もっと詳しくゆうてみいや」

 俺の頭の中はとんでもなく混乱していた。いくつもの似たような事象が重なり合って……。
 重なると言えば。
「そうだ。世界が二重に見えていたんだ」
 そう口に出した途端、消えかけていた記憶が鮮明になった。
「俺はスーツ無しで宇宙空間に飛び出た玲子も見ているし、栗色の髪をした優衣が玲子に防護スーツを着せてくれたのも見た」

「なんっと!」
 何度目かの社長の絶句だ。
「ちょい待ちぃや。おまはんの話を聞いていると、玲子とユイがもう一組おるみたいなことをゆうてまへんか?」
「いるぜ。俺の頭の中に二つの記憶がある。だから猛烈に戸惑ってるんだ」

「どうゆこっちゃ、空間が分かれたんでっか?」

 訊かれて答えられるぐらいなら、こんなに狼狽なんかするものか、何がなんだかさっぱりなのだ。
「いろんな状況がごちゃ混ぜになって記憶してんだよ。さっきまでは玲子を救出したと思っていたんだけど……急激に疑問を感じたりと支離滅裂なんだ」
 深く息を吸う俺を優衣はじっと注視し続け、言った。
「記憶の二重化です。やはりユウスケさんが時空修正を起こした時間項になっています。となるとこのあと、書き換えが始まります。その被害を最小限にするには、この話題をすぐに中断するべきです」

「き、記憶の二重化? 記憶の書き換えって何やねん?」
「説明すれば、さらに記憶の書き換え項目が増加し、その分感情サージがひどくなります」
「か、かまわへん。それより知らんままのほうが気分悪いワ」
「ユウスケさんもそれでよろしいですか?」
「当たり前だ。俺が当事者なんだろ? 真実を知りたい。かまわないから説明してくれ」

 優衣は俺の目の奥を見て大きくうなずくと、
「ユウスケさんは二つの世界を体験していますが、ワタシには記憶がありません。つまりワタシが時間項ではないからです。となると……」
 妙な間が空いた。
「となると、何だよ?」
 優衣は確信を得たようにゆっくりとうなずき、
「ユウスケさんは二つの世界を体験していますが、ワタシには記憶がありません。つまりワタシが時間項ではないからです。となると……」
 妙な間が空いた。
「となると、何だよ?」
 優衣は確信を得たようにゆっくりとうなずき、

「ぬぁぁぁぁ! なんだ? いま時間が戻ったぞ!」

 社長はキョトンとし、優衣はじっと俺の顔を見て言った。
「それはマンハイム効果です。レコードの針飛び現象とも言われる時間異常です」
 と言ってから、
「これで確定です。時間項であるユウスケさんに今揺れ返しが来たのです。次元末梢の瞬間です」
 意味不明の現象は俺の背筋を凍らし、気を失いそうになるほどめまいを覚えた。

 だが優衣は淡々と説明する。
「これではっきりしました。レイコさんを救助しに現れたワタシは異次元同一体です」
「異次元同一体?」
「異時間とはちゃうの?」
「別次元です。簡単に説明すると、メッセンジャーを宇宙空間に放り出した瞬間を歴史のジャンクションとして、レイコさんが死亡するという歴史に次元が分岐したのをユウスケさんが元に戻したのです」

「あっ!」
 今度は全く異なる光景が不意に甦った。
「ナナが来たんだ!」
 唐突に思い出したのだから仕方がない。

「お……おまはん。ほんまに支離滅裂やで。ナナって、何をゆうとんねん? やっぱ低酸素症や。脳障害が出とる」

「そのあとにユイにも会った……」
「だいじょうぶか、裕輔?」
 マジで不安げに覗き込む社長の顔を見て、
「社長。俺は正気だ。真面目に聞いてほしいんだ」
 と釘を刺してから続ける。
「俺は異時間同一体のユイだと思っていたんだ。で、その時のユイから、次元が違うと言う話を聞いたんだ。なんだか難しい話で、直接交渉ができないからナナを利用したって……」
「向こうのワタシがそう言ったんですね?」
 優衣が身を乗り出して真剣に訊いた。
「ああ。そう言った。間違いない」
「この次元の異時間同一体なら同期処理が求められますが、そのような事実がないところを見ると。現れたのは間違いなく異次元同一体です。次元が分岐した後のほんの短い時間を利用して知らせに来たんです」

「やはりネブラがからんどるんや」

「せっかく知らせてくれていたのに、俺のせいで……向こうユイはこんなことになって」
 とてつもなく後ろめたいものを感じて息が詰まりそうになった。
「何をゆうとんのや、裕輔。べつに悪い結果になっとらんがな」
「だけど玲子が死ぬという世界ができてしまった」
「何度も言います。その次元は幻として終わったのですよ。ユウスケさんが後悔する必要はありません。むしろ誇りにしてください」
「どういう意味だよ?」
「それがネブラの狙いなんです。人が持つ最も悲しい感情である『後悔』を武器にしてくるんです」
「後悔を武器に? 感情だぜ?」

 優衣はこくりとうなずき、
「もしユウスケさんが時空修正を行わなければ、玲子さんが死亡すると言う史実に書き換えられます。そうすると後悔したユウスケさんは戦意を喪失し、悲観した社長さんはミッション中止を求め、プロトタイプ破壊の計画が消えることになります。そのためにネブラはメッセンジャーを利用したんです」

「ネブラはワシらの感情を操作するほど進化してまんのか?」
「これまでに何十億、何百億というヒューマノイドを傷つけて得たデータですから、それぐらいは楽々とやってのけます」
「良心に恥じるやましい気持ちを逆手に取るわけか……」
 薄ら寒いものを感じたぜ。ネブラめ。

 悔し紛れに地団駄を踏みたいところだが、まだ喉の奥にしこりが残る。
「じゃ、じゃあ。さっき宇宙空間に放り出された栗色の髪のユイはどうなる?」

『次元と共に消滅します』
 やにわに声のした天井へと力強く頭を振り上げる。シロタマだった。
「それは死んだ、と言うことか? タマ!」

『死亡と言う表現は正しくありません』
「それはアンドロイドやからか? 今そんな言葉尻にこだわっとる場合とちゃうやろ!」
 語気を強める社長へ優衣が諭すように言う。

「その歴史そのものが無かった、という意味です。つまり時間修正された異次元は瞬く間に消滅する運命です。修正の結果によって、存在し得ない世界となったのですから、異次元同一体どうしが顔を合わすことができないんです。そのことを知っているから、ネブラはこんな卑怯な手を使ってきたんだと思います」

「ちょい待ち!」
 社長は手と頭を同時に振って話しを中断させた。
「あんたらの話を聞いていて、背筋に寒いもんが走りましたデ」
「なんでしょう?」
『質問は随時受け付けています』
 優衣とシロタマから尋ねられて、社長はたじろぎながら、
「時空修正をすると次元が分極化して修正前の世界が消えるんやろ?」
「はい」
「ほな。ワシらのやってるこのミッションが成功したら、今の次元、この銀龍の、この部屋、」
 格納庫の壁やデスクを平手で叩きながら、社長は興奮した声を小刻みに出して、
「これら全部が消えて別の世界と入れ替りまんの?」

 目を丸く見開いた社長に、シロタマはこともなげに応える。
『それが時空修正と言うものです』
 優衣も追従し、
「記憶も何もすべて無かったことになります」

「アホな……」
「バカな……」
 俺たちは互いに息を飲んで顔を見合わせた。
 何だかとても無駄なことをしているような気になって、無力感が押し寄せてきた。
 水宮の城の一件や、楓(かえで)との出会い、これまでの長い道程がすべてが白紙に戻るなんて考えられん。

 社長はもう一度大声で話を遮断する。
「あ──やめや、やめや! それよりもや。話しが偏り過ぎでっせ! ユイの主張は推測に過ぎんのやろ? 信憑性の高い話やけど、何かで立証できまへんのか?」
 俺の頭の中にあるもう一つの記憶、その最も奥深い部分がさらに鮮明になってきた。

 ミカンが防護スーツを組み立てた。
 唐突に新たな言葉が湧いて出た。
「そうだ。俺がスーツの組み立て方をミカンに教えたんだ!」

 玲子が脱ぎ捨てて行った防護スーツのマスクを引っ掴み。
「重要なことを思い出した。この防護スーツは向こうの世界のミカンが組み立てて、第三格納庫に置いてあったスーツだ」

 はっと顔を上げ、
「「じゃあこっちのは!」」
 社長とそろって声を合わせ、俺たちは息せき切って向いの格納庫へ飛び込んだ。

 俺の記憶ではデスクの上に組み立てられたスーツが横たわっている――が。そこはきれいに片づけられており、白い平面が剥き出しになっていた。
「おかしい……。何もない」
「ここにおましたんか?」
「あったんだ。ミカンが組み立ててここに置いといてくれて……。だから玲子を助けることができたんだ」
「やっぱり。おまはんの思い違いか?」
「自信が無くなってきた……」

 優衣は俺の手元を見て首を横に振った。
「思い違いではありません。こちらの次元ではそれが行なわれていませんが、ユウスケさんはミカンちゃんにスーツの組み立て方を教えることで時空修正を行ったのです。それがその証拠です」
 手が赤くなるほど握り締めていた玲子のマスク。
「もしかして……」
 俺はその場を飛び出し、第一格納庫との狭間にある倉庫へと駆け込んだ。そこにあるロッカーを片っ端から開けて中を確認する。

 中に入っていた防護スーツは思っていたとおりすべてバラバラの状態だったが、マスクだけは整列していた。それを声に出して数える。
「1、2、3……」
 数え終わって息を飲んだ。
「6人分になる!」
 玲子が使用していたマスクを数に加えると、ちょうどクルーの人数分になる。そう、銀龍に装備された防護スーツは一つ足りないので正解だ。楓(かえで)が起こしたゴタゴタの時に一つ宇宙へ落として紛失したのだ。だから現在銀龍では防護スーツが一つ足りない。つまり玲子が着ていた防護スーツはこの銀龍の物ではない。でも紛れもなくそれは銀龍の物で……。

「くそっ!」
 自分で口に出した言葉なのに、その意味が理解できなくて自己卑下(じこひげ)に陥った。でもこれだけはでかい声で宣言できる。
「社長! これが時空修正を行なった証拠だ。やっぱり行われた。玲子が助かる歴史に俺が書き替えたんだ!」
 急激に足の力が抜けた。
 頭の中に存在する二つの記憶、どちらも真実だ。ということは、やはりあっちの玲子は死んだのだ。
 そっちの世界にも俺はいる。しかも俺だけは助かる。そうなったら俺は……。
 胃袋がきゅっと縮み上がってきた。
 もしかして田吾が医務室に玲子を連れて行った光景のほうが幻かもしれない。
 どちらが真実なのか混沌として来た。ワケが解らなくなって腰が砕け、立っていられずその場に崩れた。

「ほんまかいや?」
 俺の様子を見た社長もロッカーに詰め寄り、中からマスクだけを取り出して通路に並べ始めた。
 最後に玲子が使用していたマスクを俺から奪い取ると最後尾に置き、俺と同じように驚愕する。
「ほんまや。一つ多いがな……」

 有り得ない光景に身を震わせつつ、社長は何度も数えていたが、最後は震え声でこう言った。
「おまはんの言うとおりや。世界が二つに分極化したんや。ほんで玲子は死の淵から生還したんでっせ」
 社長は俺を拝むようにして手を合わせた。
「おおきに、裕輔。ようやってくれた」
 俺は勢いよく頭(かぶり)を振る。
「とんでもない! 俺がスーツのメンテナンスをさぼらなかったら向こうの玲子は死ななかったかも知れないんだ。全部俺が悪い」


 第二格納庫に戻った俺と社長はしばらく放心状態だった。
 それは防護スーツが一つ増えたという事実に驚いたのではなく。玲子が死亡する歴史があったことを認めざるを得なくなったからだ。
「うぐっ!」
 嘔吐感が突然襲ってきた。

 社長も不快感を露わにして目をつむった。
 不安げに優衣が覗き込み、
「記憶の書き換えが始まり、感情サージが起きています。真実が変化するショックがダメージとなってフィードバックするんです」
 優衣が言うほどダメージはきつくなく、時空跳躍よりはるかに軽いので堪えるのは容易い。
 にしたって記憶の二重化などめったに出会えない貴重な経験だ。

 と思っていたら、
「あっ!」
 とっても重要な案件が頭を過った。こんな切羽詰った時になんだよ、と叫びたくなるほどの重要案件だ。
「俺は時空修正をまだしていない!」
「何ゆうとんのや。おまはん?」
「違うよ社長。まだ俺は時空修正を終わらせていないんだ! だから俺自身が気付かなかったんだ」
 そう、このことを過去の俺に知らせるという流れを作ってこそ、時空修正なんだ。
「じ、時間が無い……」
 これまでにない強い焦りを感じて、咄嗟に近くにあったメモを引っ掴むと、俺は大事なメッセージを走り書きする。
 防護スーツの組み立てを怠った自分対する自責の念と、玲子に対する、そうだな、注意書きみたいなもんだな。
「頼む、ユイ。これを次元が分極化する前の俺に渡してくれ。記憶が書き換わるまでに伝えないと取り返しがつかないことになる」

 優衣はメモを受け取ると力強くうなずき、虹色の光と共に消えて瞬く間に戻って来た。
「この時間域では既に存在しない時間域ですので、ワタシの過去体に任せてきました。確実に届くと思います」

 尋ねたいことはいっぱいあるのに、吐き気を堪えながらの状況では、何も考えられないのが正直な気分だ。
「何を伝えたんでっか?」
 感情サージのダメージを受けて蒼白の顔で覗き込む社長に、
「怠惰な自分に贈る戒めのセリフだよ」
「ははは。自己反省でっか。エエこっちゃ」
 しかし嘔吐感の減少と比例して、もう一つの記憶も希薄になってきた。

「でも。社長。自己反省って、俺……何したんっすか?」
「知らんがな。ワシかて頭の中に霧がかかってまっせ。何の話しをしてたんやった?」
 優衣は俺たち二人を慈愛のこもった柔和な視線で見つめつつ、
「それで正常です。新たな歴史に切り替わってゆくのです」

 かすかに残った遠い記憶を引っ張り出すように尋ねる。
「玲子は……玲子はどうなる」
「レイコさんも同じです。何も覚えていないでしょう」
 ニコリと天使の微笑を俺に注ぎ、
「あの人は簡単にどうにかなる人ではありませんね。ユウスケさんに守られていますから」
 意味ありげなセリフだが、一体何が起きたのだろう。俺が玲子を守る?
 反対ならあり得るのだが……。


 霧が晴れるように、やけにすっきりし始めた頭をかしげ、俺と社長はまず司令室でぶっ倒れたままのアカネを再起動し、やっぱり医務室に運び込まれた玲子の様子を窺うために、第二格納庫を後にした。

 面倒臭いシステム認証と再起動コードを述べた俺の前に立った茜。そのシステムボイスが起動を知らせる。
『再起動完了。全システムリストアーされました。機能不全の箇所はありません』

 本人はすぐに起き上がって瞼をパチパチした。でも何が起きたか把握できていない様子だ。
「あの蒼い目の怖い人は?」
「もう二度と来(け)えへん。そやけどおまはんは自分で機能停止状態にして玲子を守ったんや。エエ子やな」
 優しく茜の銀髪ストレートの髪を撫でる社長。
「レイコさんは?」
「おまはんも行こか。いま医務室で寝とる」
「どうかしたんですか? 怪我ですか?」
「安心しろ、アカネ。あいつは怪我なんかしないぜ。何しろ宇宙に飛び出たって生きて帰って来るんだからな」
 なぜか記憶の片隅に、素のまま宇宙空間に吸い込まれて行った奴の姿が消えずにあるが、その理由を考えても何も出ない。いくら考えても徒労に終わるだけだった。

 自分の出した言葉に首をかしげながら、俺たちは医務室へと向かった。




「レイコさん……」
 たおやかな微笑を浮かべる優衣へ、玲子が視線を上げる。
「ユイありがと。でもよく防護スーツ組み立ててあったね。この人サボってたでしょ」
 ベッドに横たわった玲子は真空の空間から生還した割には朗らかに接して来た。まだ顔色が良くないのは、やはり低酸素状態に晒されたからだろう。
「ご安心ください。ユウスケさんに抜かりはありません。ちゃんと組み立ててくれてましたので」
 そう言われると、胃の辺りがチクチクする。

 短く刈りあげた自分の頭をボリボリ掻き、言い訳を考えるものの何も思い浮かばない。
「いや。それが……あのよ……」
「アホ。言葉に迷ったときはな、『お前さえ無事ならそれでいい』ちゅうといたらええねん」
 背中からドンと社長に突かれ、さらにたじろぐ。
「しゃ、社長。そういう過激なコトは……口が裂けても言えないわけで」

 ハゲオヤジは鼻を鳴らし、
「ふんっ、根性無しめ……」
 と言うと、パンパンと手の平を打ち鳴らし、
「さ、もうちょい寝かしたり。ほれ、男連中は部屋を出なはれ。あ、こら田吾、鼻の下伸ばしてる場合ちゃうで! ヲタはレディの寝室に長居したらあかんやろ」
「な、何を言うダ。オラ何もやましいことは考えてないダよ」
 太短い割には器用な指で、田吾は鼻の下を急いで隠して否定。社長はさらに咎める。
「そんなもん分かりまっかいな。それとな、おまはん。アカネの人形さん作っとるやろ」
「人形じゃないダす。フィギュア!」
「呼び方なんか何でもエエワ。それを作るんはエエけど、銀龍の断熱マットをつこうてますやろ。あれやめなはれ」
「えー。ちょうどいい固さで削りやすいんダよー」
「あかんワ。船尾に穴が開いて、空気が漏れ出したらどないしまんねん」

「耐熱マットで密閉させるワケないダよ。そんな安っぽい宇宙船は無いダ」
 ムキになって言い返す田吾に、社長はなおも吠えた。
「うっさいワ。文句イイな! さぁ今から後片付けをするで。あの青眼のおっさんのおかげで大損こいたワ」
 社長は田吾の耳を引っ張って連れ出そうとし、パーサーは二人の後を追従しながら爽やかな笑みを浮かべる。
「明日の朝食当番はキミなんだけど、私が代わってあげますよ」
「あー。それなら特製生ハムサンドイッチがいいダ」
 振り返って嬉しそうな顔をする田吾へ眉をひそめた。
「何を言うんですか! キミがそればっかり食べちゃうから、生ハムなんか当の昔に品切れですよ」
「せっかく生野菜が収穫できそうなのに、今度は肉系が無いダなんて。あーそう思うと無性に食べたくなってきたダよ」
 ブタの食欲は止(とど)めなく旺盛なのだ。

「じゃあ、近くのお店に寄りましょうよ」
 屈託なく言う茜の背を押して優衣も歩き出し、
「ここは宇宙なのよ。お店なんかないわよ」
 茜は宇宙を舐めている。ま、玲子もそのうちの一人だが、これで少しは身に染みただろう。

「さあて……ワタシは操縦系統のオーバーホールでもするかな」
 機長が遠隔操縦用のパイロットアタッチメントを掲げて、細長い体を引き伸ばしたが、思い出したかのようにベッドに向かって身を屈めた。
「そうだ、レイコさん。宇宙から見た銀龍はいかがでした?」
 つるりとした顔で訊く機長へ、玲子もこともなげに応える。
「キラキラ輝いていて、とっても美しかったわ」
「そうでしょう。そうでしょう。うんうん」
 まるで愛娘が褒められた親みたいに誇らしげに破顔すると、上機嫌で医務室を出て行った。

「やっぱ。特殊危険課は変人の集まりだな」
 俺は溜め息一つを吐き、
「んじゃな。玲子、ゆっくりしろ」
 椅子を後ろにずらして立ち、出口までのほんの数歩の間際。
「ユウ……スケ……」
 後ろから蚊の鳴くような声がした。
「あ?」
「あなたは無事なの?」
「ああ。ミカンが素早く救助してくれたおかげで無傷だ」

 ずいぶんと間を空けて、
「そう……。よかった」
 さらに間を空け、
「ごめんね……嫌いになった?」
「あ…………う……あ、だぁ!」
 時空跳躍のダメージよりも激しい衝撃を受けた。

 あ、熱い……苦しい。
 俺の腕に飛び込んで来た玲子の温かみがよみがえってきて胸の中を熱くたぎらせられた。喉が痙攣を起こしたのか完全に声を失った。
 こういうときは何て答えたらいいんだ。いつも悪タレを吐き合う会話しかしていないのでとても戸惑う。

 とにもかくにも、
「嫌いもなにも……あれだ……なんだ。それさ」
 誰か助けろ。誰でもいい。そうだ。ミカン、救助を要請する。大至急だ。
 頭の中で必死こいてSOSを唱えるが、ミカンはやって来ることは無い。あいつは野菜栽培室で草むしりでもしているはずだ。

「そうだ。お……お前はもう少し冷静に行動しろよ。それと、えっと……き、嫌いではない」
 頬が燃えるように熱かった。
 とにかくそれだけ言い残し、あとは意味の無い、何だかよく分からないことをつぶやきながら医務室のドアを閉めた。

「あっ!」
 なぜだか忽然ととんでもないセリフが記憶の片隅に浮かび上がった。玲子があんなこっ恥ずかしい質問をするからだ。
 この難局を乗り越えたら……プロポーズだと?
「ば、バカな!」
 しかし拭いされない事実が焼き付いたままだ。
「そうか……あのとき俺は狂ってたんだ」
 ちゅうより、まさかあいつ覚えていないだろうな。
 これまでに味わったことのない冷や汗が背中を伝たう悪寒を感じながら、医務室を後にした。

 閉まりかけたドアの隙間を縫ってシロタマが追い掛けてきた。そして疲労感漂う俺の頭上でぽつりと言う。
『レイコが着てきた防護スーツがこの次元で消えずに残っているのは説明できない現象です』

「あ、ほんとだな。優衣は次元は抹消したと言ってたよな」
『そうです。すべてが消えるはずですが、防護スーツが消えない理由は、裕輔の求愛行為とおなじぐらい不可思議な現象です』

「なっ! お前、なぜそれを知ってる!」

「シロタマのセンサーアレイネットワークを舐めちゃらダメだじぇ。すべての格納庫に張り巡らちてるからね。ゴキブリの足音だって記録されるんだ」
 格納庫にゴキブリなどいないが……。
「うそこけ、別次元のたわ言がこっちに残るはずねえだろ!」
『防護スーツが消えないのと同じ理由だと思われます』
 とだけ伝えるとぴゅーとどこかへ飛んで行っちまいやがった。

「こ、こら。タマ……ちょっと困るんだけど……。何とかしてそれだけでも消してくんない?」
 シロタマを探して船内を彷徨ったのは隠しようの無い事実として歴史に刻まれたことだろうな。うん。